啓蒙そして祭り文化の芽生え
当地横須賀は「祭りが盛んだ」と昔からよく言われるが、三社祭礼囃子が三熊野神社大祭の附祭に取り入れられて以来、どれだけの町民がこれを習得していたのだろう。これを確認する術はないのであるが、おそらく、現在のように小学生以上の全ての者が多少の上手下手の差こそあれ、その基本的なことのほとんどを習得しているというような時代は、おそらくなかったであろうと思われる。こんな時代を迎えることができたのは、各字町の方々のご尽力は、勿論であるが、保存会の功績も少なくはないと自負している。以下に挙げる活動がそれに貢献したと想われる主な活動例である。ただ、以下に挙げるような活動の結果、個性の消滅,均一性の促進等、現代の学校教育に言われるのと同じような事で、非難された時期があった。しかしながら、そんな均一に育った子供達が大人になり、そんな非難に耳を傾け、個性を復古し、祭りそのものを真剣に考える若者に次々と育っていっている。これは、個性的でないにせよ何にせよ、お囃子を習得していたからこそ、人々の非難に傾ける耳を、また、それを考える頭を持てたのである。また、個性の消滅等の非難が町民から生まれるというような土壌、すなわち、長い歴史の中で横須賀の町民にしっかりと染みついたお祭りやお囃子の感覚が、次の担い手を育てていったのです。全ての町民が同じ土俵の上に乗り、お祭りを考え、ものを言い、そして、当日は没頭する。こうして、横須賀の祭り文化が芽生えてきたのではなかろうか?
三社祭礼囃子のレコード収録
昭和41年三社祭礼囃子がレコードになった。この影響は多大な効果をもたらすことになった。今まで祭り前の稽古場(注1)でしか、教えてもらえなかったこと、師匠に就いて教えを請わないと習得できなかったこと、これらが、自宅にいながらにして、覚えることができるのである。このレコードの発売により、三社囃子の底辺が大きく広がった。
これまで、三社祭礼囃子は門外不出のような側面もあり、それが門戸開放になったわけである。従来、師匠に就いて教わった場合、「中々、次のステップを教えてくれなかった」とよく言われた。芸事という観点からすれば、それが当然であるかもしれない。ただ、このレコードの発売により、三社祭礼囃子を習熟する者が飛躍的に増え、お祭り自体が活性化されていく、ひとつのきっかけとなったのは事実である。
(注1)横須賀では、公民館のことを稽古場と呼ぶ。稽古場とは、漢字で書けば「稽古をする場」と書くが、それは知る人ぞ知るという感じで、子供の頃から、いやずっと以前から、そこは「けいこば」という固有名詞の場所なのである。そこで、お祭りの何ケ月も前から支度をし、太鼓の練習をする。
レコードが発売されるまでの経緯が中々興味深い内容である為、以下に紹介する。
以下昭和41年
2月23日
コロムビアレコード担当者と打ち合わせ
2月25日
総務会を開き、価格面を考慮して横須賀にて録音した後、そのテープをコロムビアに送る事で決定
2月27日
午後6時より 東新町 本源寺本堂にて録音作業を始める。コロムビア担当者2名が機材を持ち込み、太鼓その他の配置等の調整に4時間余もかかり、午前0時頃より本番に入る。録音開始後、何度も失敗等あり、最終録音が完了したのは午前3時30分。その後、新屋町の旅館「うなぎや」にて食事を摂り、午前6時頃解散。
2月28日
昨夜、録音したテープを再確認したところ、太鼓,笛において数ケ所のミスを発見。テープをそのまま送付することを断念し、再録音を決定。
3月 2日
午後6時より再び本源寺本堂にて録音。この日は、あいにくの雨となり、太鼓の音が前回とは異なっていた。かつ、この日はコロムビア担当者も来横しなかった為、保存会メンバーが機材取り扱った。演奏かつ機材の取り扱いと皆で奮闘し、午前0時頃、漸く終了した。
3月 3日
録音テープを静岡コロムビア営業所へ持参。諸々の手続きを終了後、録音テープを聞いたところ、非常に首尾悪く、コロムビア技術者4〜5名がこれを修正すること5時間。漸くにして完成したので帰町。時刻は午後9時。帰町後、太田氏は十六軒町 柳瀬松太郎氏宅を訪問し、レーベルの図案を検討、そして柳瀬氏により作成され、午前0時頃漸く完成。
3月 8日
東京赤坂の日本コロムビアKKよりTELあり。担当者曰く、「送付頂いた録音テープは雑音がひどく、レコードにするは不可能である。東京のスタジオまで出向いて頂いて、録音して欲しい」止むを得ず、録音のため上京することを決定。そして、録音の日まで、毎夜猛特訓をした。
3月16日
レコード吹き込みのため上京。この日の昼間、浜松市の「中学卒業生を祝う会」で三社祭礼囃子を披露し、帰町して夕食をとった後、夜行列車で上京するという強行軍であった。
3月17日
午前4時頃東京着。東京駅待合所で小休止の後、タクシーでコロムビアへ向かう。午前6時頃到着するも、まだ中には入れないため、近くの旅館で風呂に入って仮眠をとる。午前8時30分頃、コロムビア入りし、午前10時にスタジオ入り。故太田博明氏が当日の模様を書きとめているものが残っており、それが、如実にその様子を書き綴っているため、それをそのまま以下に引用することにする。
午前10時より第一スタジオに入り練習を行う。楽器の配置をあれこれと研究したが、ディレクターが指図によれば、笛は笛、大太鼓は大太鼓、小太鼓,すり金等全員別々の位置におかれ、しかも屏風のようなものでお互いの顔が見えないように締め切られた。
これは洋楽のオーケストラを録音する場合の配置で、吾々のオーケストラは楽譜なしのお互いの呼吸で合奏するものであるから、これではとても合奏はできないことを説明した処、このディレクター氏大いに困り、あれやこれやと思案半の処へ他の一人のディレクターが見え、この有様を見て「私が応援しよう」というので今度はこのディレクターの指図に従った処、前のディレクター氏の配置した位置とはすっかり変えて、その上屏風のようなものまで全部とりのぞいてくれたので、それで吾々もどうやらやれる自信がついた。
数回のテストを行った。第二のディレクター氏は機械室に居て音の調査を行い乍ら、楽器の位置を序々に変えて行った。大体配置の定まったところで私太田は機械室に入り、その楽器音の調和を調べた。
それからも大太鼓、小太鼓、摺金、笛のアンバランスが仲々とれず大いに苦心。ようやくバランスのとれた位置に座ぶとんをおいて変動のないよう注意した。つづいて本番に入ったが一曲一曲を慎重に区切っては録音、ようやく六曲全部をとり終わったのは正午頃近くで正味一時間三十分という長時間を要した訳である。
吹きこんだレコードは33回転で計12分間なんと永い本番であった訳である。全員冷汗やら何汗やらでぐっしょりかいていた。
レコード録音時の演奏者
大太鼓 植田 市郎
小太鼓 太田 博明 水野 安次
摺 金 中村 太郎
笛 大石 一豊 長谷川義治
この時録音したレコードは、翌4月に完成。作成した三百枚を完売し、増版した二百枚も完売した。
後年、二回にわたって、カセットテープも録音した。
少年少女の育成
保存会結成当初より、少年少女の育成はおこなってきたが、昭和42年に「文化財保護少年少女団」が結成され、大須賀町教育委員会の名において、その加入希望者が公募され、その指導員として保存会がその任に当った。これは、後年「小学生ふるさと教室」と名称が変わるが、現在も継続して行っている活動である。毎月二回の練習を行っており、現在では60余名の子供達が参加している。
<練習風景の写真>
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大祭前のお囃子指導
大祭の一週間位前の二日間、各字町より希望者を募って、お囃子の指導を行った。
これは昭和42年より始められたが、その後しだいに参加希望者が減り、昭和50年頃より行われなくなった。これは、段々、お囃子に対する熱が冷めてきた訳ではなく、逆に各字町のレベルが急速に向上し、教える人材も各字町で豊富になっていったからであった。お囃子の啓蒙が習熟しつつある現象であった。
※平成12年11月「伝統から芸能 そして お祭り文化の開花 熱き者達の50年」より
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