熱き思いの結集
ひとつの雑誌記事から県無形文化財指定まで
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昭和26年1月15日号の「週間朝日」グラビア版に「今日の群像」と題して当時の各界の名士が集って祭囃子の研究会を開き、その会が「五笑会」と命名されたという記事が載った。
【解説】
<馬鹿囃子>
神社の祭礼の山車(だし)などで奏する囃子。里神楽から脱化したものを云う。太鼓締太鼓,鉦,笛を用いる。<広辞苑より>
<上の記事に記載の各位>
志賀直三:随筆家,茶道家(宗?流),作家 志賀直哉氏弟 明治32年生
益田義信:画家(国画会) 明治38年生
石川欣一:ジャーナリスト,翻訳家,評論家 明治28年生,昭和34年没
宮田重雄:画家(国画会),医学者 明治33年生,昭和46年没
伊志井寛:新派俳優 明治34年生,昭和47年没
辰野 隆:フランス文学者,評論家,随筆家,翻訳家 明治21年生,昭和39年没
岸沢式佐:常磐津節の三味線方 岸沢流家元 明治24年生,昭和37年没
轟夕紀子:映画女優 大正6年生,昭和42年没
北林谷栄:映画女優
徳川義親:尾張徳川家十九代当主,植物学者 明治19年生,昭和51年没
獅子文六:作家 明治26年生,昭和44年没 <人名辞典より>
それを見た西大渕(現伊東市在住)の鈴木良平氏(当時27才)が、我々もこうした会をつくりたいと言い、内藤幸三氏(軍全町 当時47才 昭和28年没),太田博明氏(東新町 当時31才 昭和63年没),と相談の上、「我が横須賀にも神田囃子の流れを汲むお囃子が有り、その保存伝承に尽力している有志が多数存在する」ことを伝える為に、朝日新聞経由で五笑会のメンバー宛に手紙を認めたのでした。
この手紙の発信が、全ての始まりとなったのでした。
昭和26年
3月15日 五笑会のメンバの一人である志賀直三氏より返信有り
着信した手紙の内容は、
「手紙を読み、是非一度、横須賀の祭礼に赴きたいと感じたが、あいにく今年は8日に茶会,10日に雑誌社の対談会がある為(当時の三熊野神社大祭は4月7,8,9日)、残念ながら、それが適わない」ことが述べられ、続いて東京およびその近郊の祭りの様子を詳しく紹介され、また、五笑会メンバーの熱の入れよう等も綴ってあった。さらに、当地の祭りの囃子,ひょっとこ,おかめ,獅子舞等について詳しく説明を求める内容も記されていた。
3月21日 今後の対応策を検討。志賀直三氏よりの返信を受け、一同、小躍りして喜んだ。そして今後の対応策を検討する為、有志が集って以下を決定した。
・横須賀の祭礼日に五笑会のメンバーを招待する。
・お囃子の由来を調査する。
その時の会合出席者は以下の通り
内藤幸三氏(軍全町 当時47才 昭和28年没)
太田博明氏(東新町 当時31才 昭和63年没)
清水芳雄氏(軍全町 当時30才 現在軍全町在住)
竹内正三氏(新屋町 当時28才 平成10年没)
鈴木良平氏(西大渕 当時27才 現在伊東市在住)
この会合の翌日より、お囃子等の調査の為、識者を歴訪。以下にその足跡を紹介する。
3月22日 番町の松本俊雄氏(郷土氏研究家)を尋ねる
3月23日 撰要寺 泉住職を尋ねる
3月24日 撰要寺 泉住職を尋ねる
同 日 本源寺 松下住職を尋ねる
3月25日 先日と同メンバーによる会合
3月28日 窓泉寺 野々垣住職を尋ねる。この時、野々垣住職は一同の話を聞き、次の提案をしたと云う。「私は東京中央放送の藤倉アナウサーと知り合いであり、彼が五笑会のメンバーである宮田重雄氏,徳川夢声氏と懇意であるから、それをつてにして五笑会のメンバーを尋ねてみよう」
3月30日 野々垣氏上京。氏は、各氏を歴訪したが、あいにくそのほとんどの方が留守をしており、結局、志賀直三氏一人に、わずかな時間の面会がかなっただけであった。
3月31日付 志賀直三氏より来信有り。野々垣氏訪問のお礼と今年の横須賀の祭礼時に所用により訪横できない旨のお詫び有り
4月1日 松浦勝次郎氏(東本町 当時の総代会長 S45年没)を尋ねる
4月2日 窓泉寺 野々垣住職を尋ね、上京の謝辞をし、その様子を聞く
4月3日 龍眠寺訪問
志賀直三氏より昭和26年3月15日に初めて手紙を頂戴し、3月21日に有志が集って、第一回目の会合を開いた。その翌日より、彼らは連日連夜、多数の識者を尋ね、資料を拝見させて頂き、そして熱心に学んでいった。帰りが深夜に及んだ事もかなりあったようである。彼らの熱心さには、誠に頭が下がる思いであるが、受ける側も熱心に、そして真剣に話を聞き、喜んで資料を提供し、そして助言をして頂いたとの事です。中でも、窓泉寺の住職である野々垣氏などは、彼らが尋ねた翌々日には、上京したというのだから、その行動力には、全く感服する他ありません。
7月1日 志賀直三氏より来信有り。確約はできないとの前置きあるも訪横したいとの内容
昭和27年
5月14日 神田祭視察の為、上京。現在の神田囃子と横須賀のお囃子とは全く異なる事を痛感するが、祭礼参加者の服装については、以下のように各階層毎に決められたものがあり、それが厳格に守られている事に感銘を受ける
【視察時の神田祭参加者の服装】
<古 老>長伴天に下三尺
<次 層>長伴天に上三尺
<次々層>尻切伴天に下三尺
<最下級>尻切伴天に上三尺
<神田祭視察の写真>
9月5日 志賀直三氏より来信有り。長谷川金太郎社中を中心として神田囃子保存会を結成。以下にある「神田囃子保存会の趣意書」が同封され、その賛助員として当地の会に加盟要請
<神田囃子保存会の趣意書>
この手紙を受けて一同が喜んだのは当然であるが、一同は有志が集って諸々の調査,活動しているに過ぎず、会も名前もない事に困窮し、当時、郷土史を研究していた「笠南郷土会」に相談し、内藤,太田両氏がその会に一時加入し、その会の名称を拝借することにした。
9月16日 賛助会加入の申込書を発信
9月20日 龍眠寺にて西尾氏関連の調査
9月21日 番町阿部氏<西尾氏城主時代の家老の末裔>を尋ね、西尾氏関連の調査
9月28日 龍眠寺にて西尾氏関連の調査
10月2日 〃
10月18日 東新町古老 永田虎吉翁を尋ね、昔の祭礼の様子を聞く
10月24日 新屋町 坪井義郎氏宅を訪問 古文書を調査
10月25日 中本町 森山卓治氏宅を訪問 茶道 宗?流の祖宗?の資料調査
昭和28年
1月24日付 志賀直三氏より来信有り。「単身行っても役に立たない為、仲間の何人か連れていきたい。さらに、その仲間との対談の形をとり、新聞社に費用を供出させる事も検討したいここで志賀直三氏が挙げた仲間とは、次の通り。徳川義親氏,獅子文六氏,辰野隆氏,久保田五郎氏,里見 淳氏,椋原龍三郎氏,志賀直哉氏
2月17日 会 合 前後策を検討
3月5日 横須賀区々長 林瞭一郎氏を尋ね、志賀直三氏来町に関して相談。兎に角、上京の上、氏らと直接面談する事を決定
3月7日 上京の旨の手紙を認める。
3月14日 林瞭一郎氏を尋ね、上京のあいさつ。松浦勝次郎氏を尋ね、上京のあいさつ。
3月15日 太田博明氏,内藤幸三氏,竹内易四氏,松本俊夫氏の4名がAM5:05の軽便で横須賀駅を出発し上京した。途中、鈴木良平氏と合流し志賀直三氏宅を目指した。
同日午後 志賀直三氏宅へ到着。志賀直三氏は、当時、茶道宗?流の権威者であり、その日は氏の邸宅にて茶会が催されている最中であり、多数の婦人客で賑わっていたと云う。この時の志賀直三氏邸宅の第一印象について、故太田博明氏は次のように書き留めている。「氏の屋敷は、かなり広大で門を入れば玄関まで飛び石があって古風な作りで、あたかもすずめのお宿のようであった」
同日午後7時頃より 夕食を頂く。食事を摂りながら、午前0時頃まで祭りの話をし、来横の要請をした。しかしながら、氏はこれまでに受けた手紙に記されていた内容と打って変わって訪問を固辞し、その日は交渉決裂状態であったと云う。(後でわかる事であるが、これより少し前にこの横須賀のメンバーと同じような要請を他の地方から受け、訪問したところ、その地方の人々は、氏を偶像化し、過度の期待をかけられてしまった事に閉口したという苦い経験があったようである)
翌朝 朝食を氏と共にする。昨夜の様子とは様変わりした氏の柔和な態度に一同驚いたと云う。朝食後、氏に連れられて朝日新聞を訪れ、その後、神田の頭と云う竹内某氏(当時の神田囃子保存会のメンバーであった竹内信二氏か?)を紹介された。そして、その席でついに来横を約束してくれたのである。昨夜まで、固辞していた氏が豹変した理由は不明であるが、一同の熱意が伝わり、上京目的が達せられたのは事実である。
3月16日 新屋町 山正にて報告会を開催。出席者:内藤幸三氏,竹内正三氏,清水芳雄氏,太田博明氏,竹内易四氏(新屋町 昭52年没),松浦正意氏(東本町 松浦勝次郎氏ご子息 平成11年没)
3月21日 松浦勝次郎氏 朝日新聞静岡支局に出向き、志賀直三氏ら来横の際の後援を要請
3月22日 鈴木純町長に協力を要請
同日夜 経費面について会合。 最終的に困れば自腹にて出費と腹をくくるが、とりあえず寄付も募る事になった。
<当時の寄付金募集の趣意書の原文>
趣 意 書
祭礼にはなくてはならぬものには祭礼ばやしがあります。
神事の様式でなくて祭礼としての姿で享保年間よりこの方著しい変遷を経てきましたが一般大衆に深く親しまれてきたのが祭礼ばやしであります。
横須賀三社囃子は江戸末期に吾等が祖先が遠く江戸に苦心の旅を続け、江戸ばやしを習得し併せて横須賀独特の情緒を凝らし其の型式を整えたのに始まり爾来子々孫々に伝えられているのでありますが、時代の移り変わりと共に三社ばやし独特の情緒と品位は次第にくづれて低俗に流れ勝ちとなっていることは誠に淋しいことであります。
先般神田ばやしが都の無形文化財として指定を受け、横須賀へも其の賛助員として加盟の要望がありましたので吾々はこれに呼応して連係を計ると共に研究練磨に専念し共に親睦を計りつつあるのでありますが、今回これを機会に特に江戸ばやしを研究せる知名人をお招きして古典芸術としての三社ばやしの翠を観賞して頂くと共に低俗に流れ勝ちにある三社ばやしを昔のよき姿に帰すとと共に之を保存し併せて温故知新の心に則して進取創意を凝らし之が普及を会願するものであります。
このよき機会を以って同好の多くの名士の御賛助を得て上記目的達成に邁進せんと衷心より願う私共の微意に対し一層の御高配御声援を切望して止まない次第であります。
昭和二十八年三月吉日
軍全町 内藤 幸三
東本町 松浦 正意
新屋町 竹内 易四
新屋町 竹内 正三
西大渕 鈴木 良平
軍全町 清水 芳雄
西新町 伊藤 昭二郎
西新町 内海 栄作
西本町 鈴木 正
東新町 都築 初男
東新町 太田 博明
3月23日 寄付金を募る為、各所を訪問
3月24~26日 志賀直三氏ら来訪の際にお囃子を披露する為、新屋町山正にてお囃子の練習
3月31日付 志賀直三氏より来信、来横は4/8 同行者 竹内信二氏一名との報せ有り
4月2日 返書及び旅費1500円を送金
※結局、寄付金は商工会の2000円だけで、後は一同の自腹となった
4月8日 内藤,松浦,竹内,太田の4氏が、午前11時頃の軽便に祭り装束のまま乗り込み、袋井まで、志賀直三氏らを出迎えに行く午後3時頃 新屋町 山正へ到着。夕方まで店座敷にて祭りを見物各町、山正前にて役太鼓を披露。夕食後、町長を始め、笠南郷土会のメンバーらが続々と来訪。
4月9日 河原町橋上他にて、祭り見物。夕方、山正に戻って夕食。それを終えた後、浜松放送局の藤田記者が来訪し、志賀直三氏、神田の竹内氏、太田博明氏にて懇談。
4月10日 志賀直三氏ら帰京。氏の来横時に一同の会の命名を依頼し、氏はそれを快く引き受けてくれ、その帰り際、この会の名を「各々の体は別だが、心はひとつである」という意味にて「同岑会(どうしんかい)」と命名された。
4月12日 志賀直三氏よりお礼状有り。
11月3日 神田囃子 東京都無形文化財に指定される
11月26日 志賀直三氏より来信、神田囃子文化財指定記念式典への参加の要請有り
同日 対応策を検討
11月27日 役場に相談。結果、教育委員 松本俊雄氏の同行が決定
11月30日 内藤幸三氏,竹内易四氏,太田博明氏,鈴木良平氏,松本俊雄氏が上京。その日は志賀直三氏宅に宿泊
12月1日 千代田区公会堂で催された記念式典に出席
12月7日 町長に帰町報告
12月15日 今後の方針を協議し、以下の推進を決定
・横須賀のお囃子を県無形文化財に指定される様に活動をする
・四丁目の玉の研究をする。
・獅子舞の研究をする。
12月29日 内藤幸三氏 突如 脳溢血で倒れる。
12月30日 22:30 内藤幸三氏 逝去
昭和29年
1月10日 志賀直三氏に内藤氏の訃報を打電
1月12日 内藤幸三氏の葬儀がいとなまれる。鈴木町長 弔辞、志賀直三氏よりも弔電有り。
1月19日 今後の対応について協議。内藤氏の突然の逝去に、一同はひどく落胆していたが、この日の会合で、彼の意志でもあったお囃子の県無形文化財の指定に一同全力を尽くす事を約した。
2月17日 松浦氏 県教育委員会に出向き、文化財申請手続きについて聴取
3月6日 当時の教育長 大石善六氏宅を訪問し、文化財指定の協力を要請
3月9日 文化財指定を睨み、教育長名を以て関係者を召集して、その善後策を協議する事が決定され、その旨が一同に報される。
3月10日 協議会開催
出席者
教育委員長 大石善六 ※以下、敬称略
教育長 戸塚伴勢男
教育委員 西沢さみ
社会教育委員 峰 覚龍,神尾茂次
産業振興会 横山一郎,大場長八
同岑会 松浦正意,太田博明,竹内易四
式次第
・教育委員長より召集の主旨説明
・同岑会よりこれまでの経緯及び研究結果の発表
・今後の方針について協議し、次の三つの案が出た。
①志賀直三氏,徳川夢声氏,辰野隆氏らの諸先生を祭礼時に招待
②新聞記事等による広報
③県教育委員を祭礼時に招へいする。
結果的に③案に決定
3月16日 県教育委員会へ祭礼時に来横し、県文化財指定の調査,検討を要請
3月22日 同岑会会合。来る4月の大祭時に、これまで調査した産物である、三社囃子の歴史を記したものを町内各所に掲示、あるいは、それを印刷物として見物人に配布する事を決めた。
<当時、街頭に張り出した印刷物>
横須賀囃子(三社囃子)の歴史
祭礼ばやしは、今から凡そ五百年前速即ち室町時代に大成された能樂より起こったもので、享保の初め江戸葛西金指村の香取明神の禰宜能勢環と云ふ人が創案して若衆達に敎へ
たのに始まり葛西囃子と名付けて江戸の大祭り即ち神田祭り山王祭りなどに招かれて囃したもので、これがいつか將軍の上覽祭りの囃子となって江戸を風靡しました。
当時横須賀城主西尾隱岐守忠尚公は参勤交代の折にて其の御家人衆が競って習ったものが御家人囃子と名付けられました。忠尚公には病惱の童子があり御家人衆がその慰めの為にと江戸より齎した囃子がいつしか町方に擴まり遂に三社祭の附け祭りに撰ぶばれたことが横須賀囃子の根源であります。 年を經て天保年間、囃子の調子の亂れたのを嘆いた町方の有志が遙々江戸に赴いてさらひ直し、それに新手を加えて横須賀固有の調子をあしらひ、更に明治初年有志が再び江戸に出て技を練ったと傳へられるやうに藝能横須賀囃子を完成させるまでには古来鄕土人の幾多の苦業が重ねられてゐます。 三社祭礼の附け祭りは舊幕時代には凡て奉行所の指圖に從って行われ、囃子はお城東追手門から打ち始められてゐました。
横須賀囃子の曲目は大間、屋台下、昇、鎌倉、四丁目、馬鹿囃子の六曲に分かれ別に四丁目の玉といふ曲目がありましたが、いつしか廢れたのは遺憾なことであります。囃子道具は大太鼓一、小太鼓二、摺金(四助)一、笛(とんび)二、の四種で大太鼓は普通尺六寸のもので、小太鼓は二挺掛、摺金は唐金五寸のものを用います。笛に大笛(一本調子の篠笛)を用いることは全國的に珍しいとされています。
手古舞踊りには阿亀(おかめ)と、ひょっとことがあって、おかめ踊りは役太鼓、昇殿鎌倉の曲に限り、女児によって踊られ、ひょっとこはそれ以外の曲目に行われる男の踊りとなっています。
大笛の名人として傳へられる人では、江戸角力の力士であった中野川荘八、明治に入っては石津に戸塚金作、太鼓では西新町に佐藤米吉、太田善吉郎などの故人の名が残っています。
横須賀囃子の名調子は世に比類のないもので古典郷土藝能として漸くその特色が認められようとしています。
横須賀囃子の発祥をわが郷土の誇りとしてその伝承を尊重しようではありませんか。
昭和二十九甲午年三社大祭の時織
横須賀町
同 岑 会
笠 南 郷 土 会
4月7日 役場会議室にて、翌日の県よりの派遣者の対応スケジュール等について協議
4月8日 県よりの派遣者、教育課長,観光課長,調査普及課長等計5名が来横
以下のスケジュールにて調査
PM3時 横須賀駅着
PM3-5時 役場会議室にて打ち合わせ
PM5-7時 録音,撮影
PM7時~ 町長,教育長と共に八百甚にて夕食。その後は自由観覧
4月9日 AM9-11 横須賀城跡,普門寺を視察
AM11-12 渡御行列を視察
PM12-13 役場会議室にて昼食
その際、三社囃子の説明をし、文化財への指定を懇願
PM13-15 祢里,地固め,田遊びを視察
PM4時頃 横須賀駅より帰静
※帰る際、彼らは三社囃子に対して非常に興味を持った事を述べ、文化財申請の為に準備が必要な事柄を細かく指示されたと云う。
4月20日 県教育委員会より県指定文化財の指定申請書提出について指示有り、早速一同は、その対応を協議し、書類の作成にかかった。しかしながら、いざとりまとめるとなると再度調査を必要とする事項も多かったらしく、調査,書類作成,調査,書類修正のくり返しだったようである。
4月26日 庁へ出向き、担当係官と面談。書類の不備を一部指摘され、その修正を約して帰横
7月20日 県指定文化財申請書の書類作成が完了、提出
【解説】
三社祭礼囃子とは、従来、その名称はなかったが、無形文化財申請の際に同岑会が命名したものである。
このお囃子は三熊野神社大祭の付祭りに用いられるものであり、その三熊野神社は古来より「三社様」と云う愛称で近郷近在より崇拝されてきた。その「三社様」の祭礼に用いられるお囃子である為「三社祭礼囃子」と命名されたと云う。
昭和31年
1月28日 町長名において保存会結成の為の会合を召集。
出席:町長,氏子総代,同岑会,笠南郷土会,袖師会
注)袖師会とは、祭り,囃子の研究を目的に、昭和22年に結成された有志の集まりであり、その中の数名が五笑会への手紙の発信を発端としてさらに深い調査,研究を重ねていった。その数名が同岑会となったというわけである。両会共、保存会結成後まもなく発展的解散となる。
3月5日 行政側で作成した保存会規約の検討,決定、役員の決定この日の会議決定を以て保存会が事実上の発足をした。
発足時の役員氏名及び保存会規約は以下の通り
会 長 松浦勝次郎
副会長 竹内庄吉,太田彦太郎
理 事
総務部 土屋英太郎,清水政一
調査部 加藤英雄,鈴木録郎
演技部 岡本良平,鳥山三郎,沢木利一,太田博明
宣伝部 松浦正意,鈴木正
監 事 名倉春一,太田真次,安間八郎
書 記 松本 梓
会 計 竹内易四
評議員
河原町 石原元次郎,浅岡豊吉
十六軒町 柳瀬松太郎
新屋町 竹内正三
東本町 芳野享一
中本町 水野喜一
西本町 石津三五郎
東新町 藤原 清
西新町 伊藤恒平
西田町 太田 茂
東田町 水野教一
大工町 若松和一
軍全町 清水藤三
西大渕 鈴木一郎
沖之須 横山一郎
南番町 鹿田喜平
(以上 敬称略)
<発足時の保存会規約>
横須賀町三社祭礼囃子保存会規約
名 称
第一条 本会は横須賀町三社祭礼囃子保存会と称する。
事務所
第二条 本会の事務所は横須賀町三熊野神社社務所に置く
目 的
第三条 本会は三熊野神社祭礼に行われている伝統的古典芸能
三社祭礼囃子を正統に保存顕彰することを目的とする。
事 業
第四条 本会は前条の目的を達成するために左の事業を行う。
一、三社祭礼囃子の調査研究及び顕彰すること
二、其の他必要なること
会 員
第五条 本会の会員は本会の目的を達成するため協力しようと
するものを以って組織する。
加入脱退
第六条 本会の加入及び脱退は届出によるものとする。
二、本会の目的に反し秩序を乱した者は除名することが
出来る。
役職員
第七条 本会に次の役職員を置く
一、会 長 一 名
二、副会長 二 名
三、理 事 若干名
四、監 事 三 名
五、評議員 若干名
六、書 記 一 名
七、会 計 一 名
役員の選任及び任期
第八条 会長、副会長、理事、及び監事は評議会の選出
による。
二、 評議員は各地区より選任し、書記、会計は会長の
委嘱にわり定める
三、 役職員の任期は二ケ年とする。但し再任を妨げない。
所掌事務
第九条 会長は本会を統括代表し、副会長は会長を補佐し会長
事故あるときはこれを代理する。
二、理事ハ理事会を構成する。
三、監事は本会の事業及び会計の監査にあたる
四、評議員は評議員会を構成し、会員間の連絡にあたる
五、書記会計は夫々本会の所掌事務にあたる
顧問参与
第十条 本会に顧問及び参与を若干名置くことができる。
二、 顧問及び参与ハ理事会に諮り会長之を委嘱し会長の
諮問に応える。
会 議
第十一条 本会の会議は総会、理事会及び評議会とする。
総会は評議員会を以って之に代えることが出来る。
会議は会長之を召集する。
二、総会は毎年一回の定期総会及び必要に応じ臨時総会
を開き重要事項の審議及び報告を行う。
三、理事会は必要に応じ開き事業の執行に関する事項を
審議しその運営に当る
四、評議員会は会長の重要事項を協議する
経 費
第十二条 本会の経費は会員の醵出金及び寄附金により支弁する
経費の収支決算は年度毎に総会に於て報告する
附 則
第十三条 この規約は昭和三十一年三月一日から施行する
【解説】
この年の6月に大渕村と合併し大須賀町となったことにより、保存会名称も「大須賀町三社祭礼囃子保存会」と変更。後年、保存会長も町長が兼任、次いで横須賀区総代会長が兼任、そして近年になってから保存会員代表が会長に就任することになる。また、大須賀町外からの研修志願者が増加し、それらを準会員として迎える等、状況に応じて、都度、規約を改正し、現在に至る。
4月7日 県無形文化財指定記念式典を開催
三熊野神社大祭初日、午前9時までに13台の祢里が三熊野神社境内に勢揃いし、10時より記念式典が開催された。
式次第
一、開式の辞 竹内庄吉副会長
一、会長あいさつ 松浦勝次郎会長
一、指定書授与 県担当係官→松浦会長
一、県係官の祝辞
一、町長あいさつ
一、三社祭礼囃子を舞屋上で披露
以下のメンバーにより全曲目を披露
大太鼓 澤木 利一(西新町)
小太鼓 竹内 正三(新屋町)、山崎日出男(川原町)
摺 金 中村 太郎(十六軒町)
笛 大石 一豊(川原町)、杉村 浅吉(川原町)
手古舞 柳瀬 重夫(東田町)、太田正康(東新町)
川島 幹彦(西田町)
おかめ 太田洋子(東新町)
一、同岑会,袖師会,笠南郷土会の表彰
一、記念品(紅白饅頭,三社ばやしの染め抜き手ぬぐい)配布
昭和31年
4月7日 三社祭礼囃子 県無形文化財指定記念式典
於 三熊野神社
【解説】
現在の大祭で、土曜日に行われている13台の祢里が三熊野神社境内に勢揃いして三社囃子の奉納祭が行っているのは、上の記念式典が事の始まりのようです。その後の大祭では、三社祭礼囃子の奉納式は継続しているものの、13台の祢里が勢揃いするのは、様々な理由により中止,復活を繰り返し、現在に至っています。
※平成12年11月「伝統から芸能 そして お祭り文化の開花 熱き者達の50年」より
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